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レアル・マドリー・クルブ・デ・フトボル(Real Madrid Club de Fútbol)は、スペインの首都 マドリードに本拠地を置くサッカークラブチーム。
概要1902年に創設。ホームスタジアムはエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ。現在は、リーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビシオンに所属し優勝回数は国内最多31回、更にUEFAチャンピオンズリーグの優勝回数は大会創設期の5連覇を含む9回と世界最多を誇り、FIFAにより「20世紀最高のクラブ」に認められた、世界屈指の名門クラブである。また、デロイト・フットボール・マネー・リーグによれば世界一収入のあるフットボールクラブでもある[1]。 因みに、同チーム創設当初のスペインにはサッカーを統括する団体がなく(スペインサッカー連盟は1909年創設)、また、同チームが唯一のサッカー団体であったため、スペインを代表してFIFAの創設メンバーに名を連ねた。 FCバルセロナ、アトレティコ・マドリードの両クラブとはライバル関係にあり、バルセロナとの対戦はエル・クラシコ (El Clásico) と呼ばれ、100年近く因縁の対決を続けている。同じマドリードを本拠地とするアトレティコ・マドリードとの対戦はマドリードダービー (El Derbi Madrileño) と呼ばれ、この2試合は非常に白熱している。ちなみに、この3クラブをスペイン3大名門クラブと言う。 また、一般的にはサッカークラブチームが有名だが、バスケットボールのクラブチームも持つ、総合スポーツクラブである。スペインバスケットボールリーグ1部ACBのレアル・マドリード・バロンセストがそれであり、優勝回数1位を誇る屈指の名門クラブである。 呼称Real Madrid Club de Fútbol は、一般的なスペイン語では「レアル・マドリー・クルブ・デ・フトボル」と発音する。ただし、マドリード首都圏では前半部分を「レアル・マドリース」と発音する(→マドリード#発音・表記参照)。「レアル」は「王の」「王立の」という意味で、英語のRoyalと同じである。 略称は日本の他、ヨーロッパの多くの地域では「レアル」である。しかし、スペイン国内で「レアル」と言えばレアル・ソシエダ(レアルもしくはラ・レアルと呼ばれる)を指す。 愛称は、チームカラーの白をとってエル・ブランコ (El Blanco) やメレンゲ (Merengue)。その他にも、年代ごとにそれぞれ特殊な愛称も存在する。アルフレッド・ディ・ステファノらスタープレイヤーを擁してUEFAチャンピオンズカップ5連覇を成し遂げた1950年代後半は第一次黄金時代 と呼ばれ、多くのリーグ優勝を成し遂げた1960年代はビートルズの楽曲、シー・ラヴズ・ユーの歌詞より[2]イエイエ・マドリード、リーグ5連覇を成し遂げた1980年代後半のチームは、エミリオ・ブトラゲーニョの愛称である「エル・ブイトレ」からキンタ・デル・ブイトレと呼ばれた。2000年代前半のペレス会長時代は、在籍している選手の豪華さからロス・ガラクティコス(Los Galácticos。英語読みはギャラクティコス)とも呼ばれていた。日本のメディアでは「エル・ブランコ」を意訳した「白い巨人」、「ロス・ガラクティコス」を意訳した「銀河系軍団」や「スーパースター軍団」という呼び名も用いられる。 クラブの歴史創成期1895年、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の卒業生がマドリードにフットボール・スカイというクラブを設立。1900年に分裂し、ニュー・フットボール・クラブとフアン・パラシオス会長のエスパニョール・デ・マドリードという2クラブが新たに生まれた。そして、1902年にフアン・パドロスが会長となり、レアル・マドリードの前身のクラブであるマドリードFCが誕生した。 1905年には初のタイトルであるスペイン国王杯を獲得[3]。1912年に、後に会長となるサンティアゴ・ベルナベウが選手としてデビューした。1920年、アルフォンソ13世 によってクラブ名がレアル・マドリードとなる。1924年に、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ以前のスタジアムであるエスタディオ・チャマルティンが完成する。1930年代には、15万ペセタで引き抜いたリカルド・サモラを始め、マヌエル・オリバレス、ジャシント・キンコセスらスペイン代表選手を集めて初のリーグ優勝、翌年にはリーグ連覇を果たした。特に1931-32シーズンは無敗での優勝であった。しかし、1936年にスペイン内戦が起こり、1939年までスペインリーグは中断を余儀なくされた。 サンティアゴ・ベルナベウ会長時代1943年にサンティアゴ・ベルナベウが会長に就任。1953-54シーズンに21シーズンぶりのリーグ優勝を達成し、翌1954-55シーズンも優勝、1956-57、1957-58シーズンには連覇を達成した。 また、バロンドール受賞のアルフレッド・ディ・ステファノ、レイモン・コパやフェレンツ・プスカシュなどを擁し、1955年から始まったUEFAチャンピオンズカップ(現:UEFAチャンピオンズリーグ)では第1回大会の1955-56シーズンから1959-60シーズンまで5連覇という偉業を達成した。なお、5連覇はUEFAチャンピオンズカップの最多連続優勝記録であり、2位はアヤックスとバイエルン・ミュンヘンの3連覇である。 1960年代には1960-61シーズンから1964-65シーズンまで国内リーグを5連覇。翌1965-66シーズンはタイトルを逃すものの、1966-67シーズンからは1968-69シーズンは3連覇と9年間で8度のリーグ優勝を記録した。黄金期から残ったフランシスコ・ヘントがキャプテンとなり、ピッリ、アマンシオなどの若手によって世代交代を果たしたこのチームは「イエイエ・マドリード」と呼ばれた。1970年代になっても、1974-75、1975-76、1976-77シーズンと国内リーグを3連覇した。ベルナベウが死去してルイス・デ・カルロスが会長になった後の1977-78、1978-79シーズンも優勝し、1960年代前半に続いて国内リーグ5連覇を達成した。この功績がたたえられ、現在の本拠地スタジアムにはベルナベウの名前が使われている。 ラモン・メンドーサ会長時代1979-80シーズンまでの国内リーグ5連覇後、レアル・マドリードは国内リーグとUEFAチャンピオンズカップというビッグタイトルから遠ざかっていたが、メンドーサが1985年に会長に就任するとエミリオ・ブトラゲーニョ、ミチェルらを下部組織からトップチームに上げ、1984-85シーズンにピチーチ賞を受賞したアトレティコ・マドリード所属のウーゴ・サンチェスを獲得。1985-86シーズンに6シーズンぶりの国内リーグ優勝を果たし、キンタ・デル・ブイトレと呼ばれる時代となった。その後もブトラゲーニョを中心としたチームは1989-90シーズンまでレアル・マドリード史上3度目となる国内リーグ5連覇を達成した。 しかし、1990年代前半はジョゼップ・グアルディオラやフリスト・ストイチコフなどのスタープレイヤーを擁しヨハン・クライフを監督に迎えて黄金期にあったFCバルセロナに主導権を握られる。レアル・マドリード暗黒の時代の到来であった。 また、1994年にエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウの改修を行い、この改修費用などでレアル・マドリードは負債を抱えることとなった。 ロレンソ・サンス会長時代ここから、再びレアルの栄光の時代が幕を開ける。 FWのラウール・ゴンサレス、フェルナンド・モリエンテス、プレドラグ・ミヤトヴィッチを筆頭にMFにはサヴィオ、フェルナンド・レドンド、クラレンス・セードルフ、スティーヴ・マクマナマン、DFにはロベルト・カルロス、フェルナンド・イエロといったスタープレイヤーが揃い始める。 1996-97シーズンには前年ACミランを率いてセリエA優勝を果たしたファビオ・カペッロを監督に招き、リーガ・エスパニョーラ制覇を果たすも、攻撃よりも守備を重んじるイタリアのサッカーを展開し、それがファンに受け入れられずわずか1年で解任する。その後も1993-94シーズンに指揮を執ったビセンテ・デル・ボスケが再び招聘された1999年までのわずかな間に4度監督が交代し、その間リーグ戦で優勝することはなかったが、1997-98シーズン、1999-00シーズンとUEFAチャンピオンズリーグを3年間に2度制覇した。 第一次フロレンティーノ・ペレス会長時代
辣腕経営者フロレンティーノ・ペレスは旧練習場敷地の売却でメンドーサ、サンス時代に膨らんだ負債を一掃し、豊富な資金力と『レアル・マドリード』というネームバリューを生かし、「毎年一人はビッグネームを獲得する」と会長就任直後に宣言し、レアル・マドリードという存在を知らしめることとなった。 2000年には会長選で公約したルイス・フィーゴをFCバルセロナから移籍金当時史上最高額で獲得[4](禁断の移籍と言われる)してリーグ優勝を飾り、さらに2001年には前年のフィーゴを上回る当時史上最高額の移籍金でユヴェントスからジネディーヌ・ジダンを獲得し[4]、見事5年で3度目となるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を飾る。
2003年には、マンチェスター・ユナイテッドで監督のアレックス・ファーガソンと確執のあったデビッド・ベッカムを獲得する。しかし、同時にそれまで個性の強いスター軍団を上手く纏めあげ結果を残していたビセンテ・デル・ボスケ監督を解任し、マンチェスター・ユナイテッドでアシスタントコーチを務めていたカルロス・ケイロスを新監督に迎える。また、キャプテンを務めていたフェルナンド・イエロにいともあっさりと戦力外通告し、チームの銀河系軍団政策に批判的だったフェルナンド・モリエンテスをASモナコへレンタルで放出(翌年、復帰するも冬の移籍市場でリヴァプールFCへ移籍)。更には中盤の汗かき役、クロード・マケレレを給与問題のもつれで解雇した(後にチェルシーFCへ移籍)。その結果、守備での貢献度が高かったマケレレの代役となる選手がおらず、2003-04シーズンは守備が崩壊し、リーグ4位に終わると共に終盤にはクラブ史上初のリーグ戦4連敗を喫し、獲得したタイトルはスーペルコパ・デ・エスパーニャのみに留まった。2004年にはリヴァプールFCからFWのマイケル・オーウェンの他、懸念されていたDFを強化すべくニューカッスル・ユナイテッドFCからジョナサン・ウッドゲートを、ASローマからワルテル・サムエルを獲得し、冬の移籍市場ではエヴァートンFCからトーマス・グラヴェセンを獲得するも、オーウェンの出場機会は少なく、ウッドゲートは怪我に悩まされ続けて殆ど試合出場が出来ず、またサムエルは崩壊した守備陣の中で高い期待に応えることが出来ず、ついに2004-05シーズンは1995-96シーズン以来9季振りとなる無冠に終わった。
また、2005年にはサントスFCから「ペレ二世」と呼ばれるブラジル代表の期待の星ロビーニョを、またセビージャFCからジュリオ・バティスタ、セルヒオ・ラモスを獲得するなど攻守両面を補強し、フィーゴ、サムエル、オーウェンら余剰戦力の放出も行った。更に冬の移籍市場ではASローマからアントニオ・カッサーノを、サンパウロFCからシシーニョを獲得するなど更なる強化を図った。しかしチームは迷走を続け、このシーズンも無冠に終わった。
また、ビッグネームとそれ以外の選手との年俸格差が激しく、ビッグネームは年俸も銀河系と言われているのに対し、下部組織からの昇格組など、それ以外の選手はスタメンであっても給料面で冷遇されていた。これらスター偏重路線は純粋な戦力補強以外に、世界市場でのマーケティング戦略という意義も強く、2003年から2005年にかけては、リーグ戦が終了すると興行として世界各地で親善試合を行うようになった。そのため、新シーズンに向けての練習期間が短く、新加入のチームメイトとの連携やコンディション維持が難しくなり、選手は疲労を残したまま新シーズンを迎えていた。 また、前述のデル・ボスケ解任後、実に4度の監督交代が行われ、戦術がなかなか定まらなかったり、選手の傲慢な態度が目立つようになるという問題もあった。その結果チームの規律は消え失せ、次第にチームは混乱していった。 巨額の資金をつぎ込んできたが、2003年のスーペルコパ・デ・エスパーニャ制覇を最後に、タイトル獲得なしの状態が続き、2006年2月にUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント一回戦のアーセナルFC戦とスペインリーグにおけるRCDマジョルカ戦での連敗により2シーズン連続の無冠が濃厚となったため、ペレスは責任を取る形で会長職を辞任した[7]。在任前半は世界のサッカーシーンをチームに釘付けにしたが、後半はその注目度に応えられる結果が得られなかった時代となった。 フェルナンド・マルティン・アルバレス会長時代ペレスの辞任後、彼の決断によりその右腕を務めていたアルバレスが会長に就任。アルバレスは、ペレス時代の『銀河系軍団』の構想を真っ向から否定した。クラブへの貢献度を給料査定の基準にし、給料分働かない者はクラブから出て行ってもらうと発言したがビッグクラブの重圧は重く、会長職を2ヶ月で辞任した。
スーペルコパ・デ・エスパーニャで優勝して歓喜する選手達(2008年)
ラモン・カルデロン、ビセンテ・ボルダ会長時代カルデロンは2006-07シーズン前に行われた会長選に勝利するとタイトル奪還に向けて始動した。手始めに、カルチョ・スキャンダルによってセリエBに降格したためユヴェントスの監督を辞任したファビオ・カペッロを新監督として招聘。規律を重んじ、1996-97シーズンにリーグ優勝の経験があるカペッロにチーム編成も一任した。2006年夏の移籍市場ではユヴェントスからファビオ・カンナヴァーロとエメルソン、またオリンピック・リヨンからマアマドゥ・ディアッラを獲得し長年の懸案だった脆弱な守備面を立て直すとともに、攻撃面でもマンチェスター・ユナイテッドからルート・ファン・ニステルローイ、アーセナルからホセ・アントニオ・レジェス(ジュリオ・バティスタとの双方レンタルによるトレード)を獲得し、就任直後から堅守速攻型のチームを作り上げた。一方でトーマス・グラヴェセンやジョナサン・ウッドゲートなど余剰戦力を放出すると共に、衰えを見せてきたロナウド(2007年1月、セリエAのACミランへ移籍)やデビッド・ベッカム(2007年夏、メジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーへ移籍)をベンチ要員にするなど、ペレス時代に作り上げた銀河系軍団の解体も行った。 また2007年冬の移籍市場では近未来を見据えてマルセロ、フェルナンド・ガゴ、ゴンサロ・イグアインの3人の若手選手を獲得し、スタメンで起用するなど世代交代も図っている。しかし、若手をカンテラ(下部組織)から昇格させるのではなく国外の選手を集めるやり方に不満の声が挙がった。最終的に2006-07シーズンは4シーズンぶりにリーグ優勝を達成するも、シーズンを通して不安定な戦いに終始したことに加え、10年前と同様にサポーターから「守備的すぎる」との批判が噴出し、クラブからも「我々の求めるスペクタクルなサッカーではない」とされ、タイトルを4シーズンぶりに獲得したのにも関わらずシーズン終了後にカペッロは解任された[8]。 その後、前ヘタフェ監督のベルント・シュスターが新監督に就任。2007年夏の移籍市場でも活発な動きを見せ、ヴェスレイ・スナイデル、アリエン・ロッベンらを総額1億ユーロ以上の大金を注ぎ込み獲得。一方でフランシスコ・パボン、アルバロ・メヒアらカンテラ出身の選手を多く放出、フロレンティーノ・ペレスが掲げた「ジダネス&パボネス」は完全に終結した。2007-08シーズンは、ライバルのFCバルセロナやビジャレアルとの直接対決を制するなど、史上最多となる勝ち点85で18年ぶりとなるリーガ・エスパニョーラ連覇を達成した。またクラブは、2008年2月にチームのカンテラ出身選手であるイケル・カシージャス、ラウル・ゴンサレス、グティの3人と事実上の生涯契約を結んだ[9]。 2008年夏の移籍市場では以前から興味を寄せていたマンチェスター・ユナイテッドのクリスティアーノ・ロナウド獲得に全力を注ぐも同クラブのアレックス・ファーガソン監督の激しい抵抗に遭い失敗、さらに同選手獲得を巡りクラブとの関係が悪化していたロビーニョをマンチェスター・シティへ放出した。新加入選手はラファエル・ファン・デル・ファールト、ルベン・デ・ラ・レッド(買い戻しオプションを行使され、ヘタフェから復帰)、ハビ・ガルシア(同様に、オサスナから復帰)、エセキエル・ガライ(ラシン・サンタンデールに1年間の期限付き移籍により、2009年夏より加入)のみとなった。 しかし2008-09シーズン、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグでユベントスに完敗し、リーグ戦においても一時は6位に低迷する成績不振などから2008年12月9日にシュスター監督を解任。後任には前トッテナム監督のファンデ・ラモスが就任し[10]、さらに冬の移籍市場ではクラース・ヤン・フンテラール、ラッサナ・ディアッラらを獲得した。 これにより15節のエル・クラシコ以降、17勝1分と驚異的な巻き返しをしたが、34節のエル・クラシコでFCバルセロナに2-6で敗れ、その後のリーグ戦も全敗し、獲得したタイトルはスーペルコパ・デ・エスパーニャのみに留まった。 2009年1月、カルデロンにクラブ総会での不正投票操作疑惑が浮上[11]。2009年1月16日、カルデロンはその責任および混乱収拾のため会長職を辞任し、その後は副会長だったビセンテ・ボルダが暫定的に会長を務めた。 第二次フロレンティーノ・ペレス会長時代2009年6月14日に会長選が行われる予定だったが、候補者が元会長のフロレンティーノ・ペレスしかいなかったため、6月1日付でペレスが会長に返り咲いた[12]。それに伴い、ゼネラルマネージャーにホルヘ・バルダーノ、クラブアドバイザーにジネディーヌ・ジダン、スポーツディレクターにミゲル・パルデサといったクラブOBがそれぞれ就任。また、前ビジャレアルCF監督のマヌエル・ペジェグリーニを新監督に迎え入れ、銀河系軍団の再構築へ向けて移籍市場を賑わせた。 ペレスの復帰後、これまでの最高額移籍であった2001年のジダン獲得に次ぐ移籍金史上2番目(後述のクリスティアーノ・ロナウド獲得を含めると3番目[4])の高額移籍金でACミランからカカを、さらに前述のジダン獲得を上回る史上最高額の移籍金でマンチェスター・ユナイテッドから前年獲得に失敗したクリスティアーノ・ロナウドを[4]獲得し、またオリンピック・リヨンからはカリム・ベンゼマを獲得した。一方、スペイン代表であるラウル・アルビオルをバレンシアCFから、シャビ・アロンソ、アルバロ・アルベロアをリヴァプールFCから獲得。カンテラ出身であるアルバロ・ネグレドをUDアルメリアから(一ヶ月後にセビージャFCに放出)、エステバン・グラネロをヘタフェCFから共に買い戻しオプションを使行してスペイン人化も行なっている。この大型補強に費やした費用は総計で2億5000万ユーロ、負債総額は3億2700万ユーロとなった。[13] 選手獲得を優先し、選手登録の上限である25人をオーバーしたため、ハビエル・サビオラ、クラース・ヤン・フンテラール、アリエン・ロッベン、ヴェスレイ・スナイデルなど多くの選手を放出し、クラブの第4キャプテンを務めていたミチェル・サルガドとの契約も解除した[14]。 タイトル国内タイトル
国際タイトル
過去の成績
2009-10シーズン登録選手
レンタル移籍中の選手
Bチーム登録選手
2009-10シーズン移籍選手
詳細は「en:List of Spanish football transfers summer 2009」を参照 歴代監督
歴代所属選手詳細は「Category:レアル・マドリードの選手」を参照 GK
DF
MF
FW
ユニフォーム
脚注
関連項目
外部リンク
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