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リオネル・ジョスパン(Lionel Jospin, 1937年7月12日 - )はフランスの官僚、経済学者、政治家。フランス社会党第一書記、首相を歴任した。 1937年7月12日パリ近郊のムードンに生まれる。生家はプロテスタントを信仰する家庭であった。1965年フランス国立行政学院(ENA)を卒業し、外務省に勤めた後、パリ第11大学の経済学教授になる。1971年社会党に入党する。
政治家への転身と大統領選挙1981年6月、国会議員に初当選。同年から1988年まで社会党第一書記。 ミッテラン政権下の1988年から1992年まで教育相を務める。1995年再び社会党第一書記に就任。同年5月大統領選挙に社会党候補として立候補するが、ジャック・シラクに僅差で敗北した。 首相就任1997年6月の総選挙で社会党を中心とする左翼勢力が勝利し、左翼連合政権の首相に就任。「多元的左翼」路線を掲げて、当時同じく政権にあった他の社会民主主義政権、(英国労働党のトニー・ブレアの第三の道路線やドイツ社会民主党のゲアハルト・シュレーダーの新中道路線など)とは一線を画した政策を行なった。ジョスパンは学者出身らしく実直な堅物というイメージの人物であり、大衆的な人気は求めづらい人物であったが、それがかえってフランス国民に受けた。また、首相時代には組閣にあたって「五月革命」の中心となった「1968年世代」を積極的に登用し、その中にはジャック・ラング文化相、ベルナール・クシュネル保健相、マルティーヌ・オブリー(ジャック・ドロールの娘)、エリザベート・ギグー、ドミニク・ストロス・カーン経済・財政・産業相、ドミニク・ヴォワネ、クリスチャン・ソテールなどがいる。また、清新な内閣を目指しミシェル・ロカール、ローラン・ファビウス両元首相ら党内実力者を人事から完全に排除することに成功している。こうして第三次コアビタシオンとしてのジョスパン内閣が成立したが、この内閣の実績としては、国内外から実現不可能とされてきた週35時間労働法の成立施行、市民連帯協定(PACS)の実現などが上げられる。 二度目の大統領選挙2002年6月再度大統領選に立つが、左翼候補の乱立のために第一回投票でジャック・シラク、ジャン=マリー・ルペンに敗れて、政界引退を宣言した。(得票率は上位より、シラク19.71%、ルペン16.86%、ジョスパン16.12%)事前の世論調査では、シラク候補とジョスパン候補の支持率はほぼ互角であったことを顧み、敗北の結果は「落雷にあった様なもの」と表したうえで、極右政党候補者(ルペン候補)が20%の支持(実際は16.86%)を受けて第二回投票に向かうということは、フランスとフランスの民主主義にとって由々しき事態であると語った。この後、5年間の政府への奉仕の結果が「第一回投票敗退」だったことに落胆を示した。そして、この情勢を可能にした右派の扇動策と左派の分散を受けて、彼はこの大統領選挙の終了後に政界から引退することによって、この敗北の責任と結果を一身に負うと表明した。また、その日までは首相としての職責を粛々と全うするとも述べている。最後に、遺憾と感謝の意を支持者に表し、5年間全力で尽くしてきたフランス国民に対しては敬意を表したうえで、社会党員と左派に対してフランスの将来の為に、次の国民議会選挙に向けて今から行動を起こしていかなければならないと諭した。 近況2005年ごろから著書を発表するなど活動を活発化させ、2007年フランス大統領選挙にむけて社会党が候補者に決め手を欠く中、様々な憶測を呼んできた。また、世論調査でも常に2007年の大統領選挙の候補として一定の支持を得てきた。しかし、左派の大統領候補としてセゴレーヌ・ロワイヤルが台頭すると、2006年6月にジョスパンはテレビTF1に出演して「状況が整えば出馬する準備はある」と語り、続く8月の社会党夏季セミナーでは引退後初の公式演説をし、出馬宣言を期待されたが、ロワイヤル候補の批判と自らの首相時代の実績をアピールするにとどめた。左派系の候補としては最後までロワイヤル候補に次ぐ支持を得てきたが、保守系の候補としてニコラ・サルコジが有力化する中、結局ロワイヤル候補で一本化する流れが左派の大勢となり、ジョスパンは出馬を断念、9月29日に立候補しないことを表明した。
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